The House 2009年、Kayanoの新しいモデルハウスがOpenします。
僕と渚の家づくりストーリー/ふらんく・ふぁん・でる・かーん
あれもこれも欲しい、そして、格好いい家に住みたい世代に。 第1話
今日は某菓子メーカーへコマーシャルフィルムをプレゼンする日だった。昨晩から少し緊張気味の僕は目覚まし時計よりも早く目が覚めた。
妻の渚はまだベッドの中で、小さく寝息を立てていた。僕はベッドから起き上がって、寝室のドアを音を立てないようにして閉めた。
渚とは合コンで知り合った。広告代理店と印刷会社の合コン。よくあるパターンで知り合って、2年の交際を経て結婚をした。
僕は先月、念願のアートディレクターの地位を得た。出世と言えば出世だが、やりたい仕事をやりたいように出来るようにするためには、どうしても手に入れたいポジションだった。渚は結婚後、勤めていた印刷会社を辞めて、フリーのコピーライターとして活動している。とは言え、コピーライターの仕事など、定期的にあるわけでもなく、今では地元企業のHP製作の仕事を何社か請けて、そこそこ稼いでいる。渚のクリエイティブな頭は、深夜に活動を始めるらしく、このところめっきり朝が遅くなった。
寝室を出ると、去年家族に加わった猫が足元に絡み付いてくる。『腹減った』猫の目はそう訴えていた。
「分かりましたよ」
僕は猫の頭をぐしゃぐしゃに撫で上げてから、空になっていたトレイに餌を入れてあげた。
「お前が大家さんに見付かったら、僕たち強制退場だなー」
勢いよく餌に喰らいついている猫の横にしゃがんで口を開いた。『知るかっ』猫の目が再び訴えてくる。僕たち3人(猫1匹)は賃貸のアパートで暮らしている。月々の家賃は8万円で、僕と渚の駐車場代を入れると8万6千円。『家でも建てようか。。。』家賃の話しをしていると、不意に渚がそう呟いた。『そうだね』確かに、家賃を考えると、家を建てられないでもない。
僕はやかんに水を入れて、ガスコンロの火にかけた。食品庫も兼ねた食器棚から食パンを2枚取り出して、ラッセルホブスに放り込んだ。顔を洗って、玄関ドアに取り付けられた郵便受けから新聞を取り出して、リビングへと戻る。
今日の一面も景気問題がでかでかと謳われている。これだけ将来の不安を煽られたら、嫌でも買い物を控えたくなってしまうのが人情ってものだ。けど、OECDが8年ぶりに発表したデータによると、日本の所得格差はこの5年減少傾向にあるらしい。一番酷い国は、やっぱりアメリカで、フィンランドなんかも名前が挙がっていた。誰もが携帯電話を持っていて、H&Mに行列を作るような時代に不景気とはどういうことだろう。年金問題に端を発して浮き彫りになった政治改革や官僚体制改革に、僕たちはそれ程期待はしていない。冷めていると言えばそう言える。〝浮動票〟僕は間違いなくその部類に括られる。『将来に不安を感じて、給料の半分を預金にまわす若者が増えている』先日聞きに行った講演会で、どこかのエコノミストが言っていた。『なんとかなるでしょ』それが、それを聞いた僕の感想だ。
新聞をテーブルの上に放り投げて、鳴り出したやかんの火を止めた。コーヒーとトースト2枚。それが、毎日の僕のメニューだった。
皿とカップをシンクの中に置いて、着替えに取り掛かる。ヘアスタイルをセットしてから、ユニクロのジャージを脱いで、アローズのシャツに袖を通す。ここで一服。煙草を吸うのがダサイと言われる時代になった。換気扇の下で吸う煙草は何とも味気ない。だけど、僕のようにラップトップに向かって考えることが多い仕事には、煙草は欠かせない。止めれるものなら止めたいとは思ってはいるけど、煙草が良いアイデアを運んでくることがあるのもまた事実。会社の営業も、ライターも、ディレクターも全員喫煙者。副流煙で死ぬくらいなら、主流煙で死んだ方がましだ。
半分ほどまで吸った煙草を灰皿に擦り付けて、スーツに着替え始めた。今日は相手方の印象を考えて、濃紺のスーツを手に取った。こちらもアローズで購入したものだ。去年、イタリアで買ったプラダのスーツは、クローゼットの端っこで選ばれる日を待っている。ちなみに、僕の持ち物は、鞄はシップスのトート型バッグ。パソコンはソニーのバイオ。財布はこちらもアローズで買ったホワイトハウスコックスで、靴はリーガルしか履かない。渚の持ち物もだいたいそんな感じ。鞄だけはフェラガモを使っているが、クライアントによって使い分けをしているようだった。
「ただいま」(僕)
「おかえり」(渚)
いつもの挨拶。時計は11時30分を過ぎていた。
「なんかさー。色々パンフレット見たんだけど、あとネットもね。今一ぱっと来るものがないのよね」
渚は家のことを言っていた。2週間ほど前の休日に、僕たちは総合展示場なる場所へと出かけてみた。大手のハウスメーカーの建物はどれも豪華で、素晴らしかった。僕にはそう見えた。
「そう?」
「うん。なんか個性がないっていうのかな」
「個性ねえ。渚の個性を満たすのって、なかなか難しいんじゃない?」
「じゃあ、そっちはどう思ってんの?」
渚は僕のことを〝そっち〟とか〝自分〟とか、そんな感じで呼ぶ。
「僕のも難しいんじゃないかな。考え出したら止まらなそうだし」
「そうよね。私より複雑になっちゃうわよね、きっと」
「多分ね」
「誰か知り合いいない?」
「うーん。いないこともないけど、頼むとなると色々面倒臭くなっちゃわないかな?」
「うん、うん。それは言える」
僕はネクタイを解いて、スーツを脱いだ。上着はハンガーに掛けてクローゼットの中へ、パンツはプレッサーにかける。パンツの折り目とスーツの内ポケットの中に忍ばせているペンが男の価値を決めるのさ、ちょっとハードボイルドっぽいけど、先輩のADから教わった言葉だった。それを聞いた翌日に、僕はモンテヴェルデを買った。
朝と同じユニクロのジャージに着替えてリビングへと戻った。
「じゃあさ、建築家で言うと誰が好き?」
渚はどうしてもこの話に決着をつけるつもりのようだ。
「建築家?」
「そう、建築家」
「うーん。一人?」
渚が黙って頷いた。
「ルイス・カーンかな」
「誰それ?プロレスラー?」
「キラー・カーンでしょ、それは。冗談としても、あんまり面白くないよ。ちょっと、検索してみな」
僕はテーブルの上で開きっ放しになっていた、渚の商売道具のPanasonicのノートパソコンを指差した。渚が検索を始めるのを横目に、僕はダイニングへ向かって、冷蔵庫から缶カクテルを取り出した。缶カクテルのソルティードッグ。本当ならスノースタイルのグラスで飲まなきゃいけないカクテルが缶入りで売っている。邪道と言えば邪道。僕はリビングへと戻って、ソファに腰を下ろしてからプルタブを開けた。
「へー、こんな感じが好きなんだ」
「感覚だよ。で、渚は誰がいいの?」
「ライトって知ってる?」
「馬鹿にしてんの?僕はADだよ、AD」
「アシスタントディレクター」
「アートディレクターっ!!」
「失礼、失礼。私はライトとミースかな」
僕には一人だけと言っておいて、渚は建築界の巨匠二人の名前を口にした。
「どこがいいの?いや、否定しているわけじゃなくて」
「そうね。ライトは日本的なところ。『和』じゃなくて、日本的って意味ね。それと幾何学的な文様になんとなく魅かれちゃう」
「ふーん。じゃあ、ミースは?」
僕はそう言って、缶カクテルに口をつけた。
「それはもうクール感でしょ。悪い男が作った建築って感じじゃない」
「確かに・・・」
「じゃあ、そっちはカーンのどこがいいわけ?具体的に述べよ、AD君」
僕はもう一度、ソルティードッグもどきに口をつけた。そう言われると、感覚の世界で生きている僕としては、何とも答えに窮するところがある。
「フィッシャー邸で検索してみて」
「フィッシャー?」
「そう。魚釣りのフィッシャー」
渚の言葉が小気味良い音を立ててキーボードを叩く。
「出たわよ」
渚はそう言って、ディスプレイを僕の方へ向けた。僕はカーソルを動かして、『窓と一体化したベンチ』をディスプレイにクローズアップさせて、パソコンを渚の方へと向け直した。
「ここで本を読みたい。青空は史上最大の読書灯、誰が書いたコピーだったけな?」
「新潮社でしょ」
「あっ、そうそう新潮社だ」
僕の休日は読書で始まって、読書で終わる。2DKのアパートには、一間の本棚が3本あって、それは隙間なく埋ってしまっていた。今では、そこに入り切らない本がリビングの片隅で平積みにされてしまっているような状態だ。
「でも、木ってメンテナンスが大変そうじゃない?後でお金が掛かるってのは嫌だわ」
「じゃあ、次はエシェリック邸」
「はいはい」
渚は何度かキーボードを叩いた後で、マウスを操作し始めた。僕はその姿を見ながらTVの電源を入れた。ニュース23にチャンネルを合わせる。筑紫さんが出演しなくなってから、なんとなく番組に重みがなくなった。僕の本棚にも筑紫さんが上梓した本が並んでいた。尤も、筑紫さんは自分のことを『軽チャー人間』と表現していたぐらいだから、重みは自覚されていなかったかも知れないけど、僕から見たらやっぱり古館一郎よりも筑紫さんの言葉の方が含蓄を感じていた。
「こんな感じかー」
「そう、そんな感じ」
「これ、言葉でどう表現するの?」
「静かなるエロティシズム」
「何それ?」
「官能的ってこと。カーンの建築にはそれがあるの」
「やっぱり、そっちの言うこと、たまに理解不能になるわ」
「そう?極めて具体的に言っているつもりだけど」
「これ、決まる?」
「決まらない・・・かもね」
こんな風にして、僕と渚+猫一匹の家づくりは始まった。
会社のスモーキングエリアで煙草を吸っていると、先輩ディレクターがパッケージを手に近づいて来た。
「お疲れ様です」
僕は軽く頭を下げて挨拶をした。
「お疲れ様。この間のプレゼンどうだった?」
先輩はそう言うと、銜えた煙草に火を点けた。
「今一、って感じです。先方はもっとくだけた感じのコマーシャルを求めていたみたいで」
「そうか。プレゼンはどうやった?」
「絵コンテです」
「実写でいくの?」
「いえ、アニメーションって線も捨て切れていなくて」
「お前の頭の中がびしっと決まっていないのが問題だろうな、それは。お客さんにはそれが伝わるのさ」
そう言って、先輩は濃い煙を吐き出した。
「これから練り直します」
「まあ、ラクにいけよ、ラクに。頭を硬くしてしまうと、いいアイデアは生まれないよ」
「はい。あっ、そう言えば、先輩家建てましたよね?」
僕は指の間で短くなった煙草を灰皿の中へと落とした。
「うん。2年経つかな」
「あの、どうやって依頼先を決めました?」
「依頼先?」
「はい。夫婦間で悩んでいまして・・・」
「お前家建てんの?」
「ええ、まあ計画段階ですけど」
「依頼先ねえ。俺の場合は、友だちに設計士がいてね。そいつに全部任せた。かみさんとは色々話しをしていたみたいだけど、俺はあんまり入り込まなかったな」
「そうですか・・・」
「展示場とか行ってみたら?」
「行ったんですけどね。なかなかヒットするものがなかったんです、夫婦共に」
「お前ら難しそうだもんな。こだわったらきりがないよ」
「そうなんですけどね。一生に一度の買い物ですから」
「そうやって固く考えるから、答えに辿り着かないんだよ。ただひとつ言えるのは、ローンの返済期間中はその会社にあって貰わなきゃいけないよな。20年とか30年とか、あっ、お前の場合は35年か」
「そうか。そういう視点も大切ですよね」
「そりゃそうさ。『建築とは完成した瞬間から崩壊が始まる』」
「何ですかそれ?」
「有名な建築家の言葉だよ。要するに、メンテナンスをして貰わないと困るってこと」
先輩が煙草を灰皿に捨てるのを待って、僕は席へと戻った。今日の帰宅も遅くなりそうだった。
猫のボディーアタックで目が覚めた。時計を見ると昼を少し周っていた。渚も眠っているのに、いつも猫は僕を狙う。猫は言うことを聞いてくれる人間を選んで、お腹が空いたとか、トイレが汚いとかの意思表示をするのだそうだ。つまり、光栄にも僕は猫の召使いに選ばれたということだ。ちなみに、うちで暮らす猫に名前はない。『我輩は猫である』じゃないが、名前はまだない・・・のである。と言うか、名前を付けずに半年を過ごす頃には、名前なんてどうでもよくなってしまったのだ。猫は『おい』と呼べば振り向くようになった。もしかしたら、自分の名前が『おい』だと思っているのかも知れない。
昨晩の帰宅は夜中の2時を過ぎていた。渚はHPの製作に熱を上げていたが、僕はそれを無視して、ベッドに潜り込んだ。猫のボディーアタックが、すっかり僕の休日の目覚まし時計代わりになっていた。
トレイに餌を入れて、トイレを綺麗にしてやると、猫は満足そうな顔をして、また寝室へと戻って行った。
「食べないの・・・かい?」
いつものことだった。
僕は顔を洗って、コーヒーを片手に、リビングで新聞を広げた。今日の一面は就任したばかりの総理大臣が発表した景気対策だった。2面にはその内容が詳しく掲載されていた。名家に生まれた総理大臣は、国民にお小遣いを渡すことで景気への刺激策をとるつもりらしい。その脇に、『住宅減税最大600万円』との見出しのついた記事を見つけた。内容は来年から、住宅取得者に対してローンの残高に応じて、所得税から1%、住民税から0.5%を10年間減税するという内容だった。
「へー」
記事を読んだ僕の口からは、自然とそんな感想がこぼれ出た。アメリカの金融危機を受けて、日本の銀行の金利も軒並み下がっている。4、5年前にも底だと言われていた金利が更に下がっていた。数学の天才たちが作り上げたシステム、お金がお金を生む『金融工学』が終焉を迎えているのだろう。僕なんかの頭で考えられる範囲で言うと、そのシステムを作り上げた本人でさえ、その『金融工学』を扱い切れなくなったということなのではないだろうか。
朝食兼昼食を作っていると、眠そうな目を擦りながら渚が起き出して来た。
「おはよう」
「おはよう、いい匂いね」
「ちょっと待ってなよ」
僕はそう言って、フライパンの中のトマトソースに、生のバジルをちぎって放り入れた。それから、皿に盛ってあったパスタに、出来上がったばかりのトマトソースをかけてリビングへと運ぶ。
「お待ちどうさま」
「あら、美味しそうね」
渚がダイニングからグラスを2つ運んできて、その中にミネラルウォーターを注いだ。
「そう言えば、昨日ね」
パスタを口に運びながら、渚がもごもごといった風に口を開いた。
「なに?」
「ちょっと、海の写真が欲しくて撮りにいったのね。その帰りに、素敵な家を見つけたの」
「そうなの?」
僕は食欲と渚の話への対応の両方を満たすのに必死に口を動かした。
「写真あるの?」
「ううん。なんか失礼じゃない?無断で写真を撮るなんて」
「まあね」
僕は渚の言葉の合間を縫って、猛烈な勢いでパスタを口へ運んだ。話が本題に入ってしまうと、渚の言葉と行動力は静止不能になる。
「見に行ってみない?」
ほら来た。
「いいよ。んじゃ、早く食べて」
「あい」
僕たちが黙々とパスタを口に運んでいると、いつの間にか寝室から出てきていた猫もトレイの中の餌を食べ始めた。
渚の言っていた家は、海岸沿いの住宅街の中にあった。僕は広目の道路に愛車のチンクエチェントを停めて、その家の正面に立った。
「どう?」
「うん。恰好いいね」
「でしょ?何でそう見えるのかな」
その家は築25年から30年と言ったところで、外壁の至るところに補修の痕があったが、長い時を過ごしてきた佇まいは、どこか趣を感じさせてくれるところがあった。
「何でだろうね。僕は専門家じゃないから分からないけど、やっぱり普遍的なデザインをしているからじゃないかな。古くなっても恰好いいっていうのは、どんなデザインにも通じるところだし」
「普遍的ね」
「うん」
僕と渚が話していると、家の陰から庭仕事用のウェアを身に着けた婦人が姿を表した。手にはガーデニング用のシャベルが握られていた。
「こんにちは」
婦人はにこやかな笑顔でそう言った。
「こんにちは」
僕と渚は同時に言葉を返した。
「すみません。素敵なお家だったもので」
僕がそう言うと、婦人が深い笑みを浮かべて僕たちの方へ近づいて来た。庭には様々な樹木が植えられていた。ハナミズキの花が綺麗に咲いていた。
「すっかり古くなっちゃってねえ。手直し手直し続けてきたら、すっかり私みたいにお婆ちゃんになっちゃったのよ」
「そんな、とても素敵です」
僕はフェンス越しに、夫人の言葉に答えた。
「どうぞ、そちらから入って来てちょうだい」
婦人は玄関の正面に設けられた門扉の方へ手を翳した。
「宜しいんですか?」
「もちろん。久しぶりのお客様だもの」
「すみません」
僕たちは夫人の言葉に甘えて、門扉から庭へと足を進めた。
「ちょっと待っててね」
婦人はそう言うと、掃き出し窓から家の中へと入って行った。僕と渚は建物を見上げた。
「素敵な方ね」
渚が呟くように言った。
「そうだね。家に負けてないよね」
建物は低く屋根が掛かっていて、深い軒が印象的なフォルムを作り出していた。以前に足を運んだ総合展示場では目にしなかった家の形だった。
「すみません」
掃き出し窓から出て来る婦人の姿を見止めて、僕は口を開いた。婦人はガーデンウェアを脱いで、ジーンズにサマーセーターという軽装に変わっていた。年齢の割りにジーンズがよく似合っていた。
「はい、どうぞ」
婦人が僕と渚にペットボトルの午後ティーを手渡してくれた。婦人の手にはポカリスエットが握られていた。
「すみません。頂きます」
「有難うございます」
僕たちは頭を下げながら、それを受け取った。
「お家お建てになるの?」
婦人はゆっくりとした口調で、そして、表情には朗らかな笑みを浮かべていた。
「はい。一歩目を踏み出したってところなんです」
渚が婦人の問いに答えた。
「そうなの?それは素敵なことね」
「昨日、海の写真を撮りに来たら、こちらのお宅を見つけて。素敵なお家だなって思ったので、主人を連れて来たんです」
「あら、そうなの。お仕事は何をなさっているの?」
「私はひよっこのコピーライターを。主人は広告代理店に勤めています」
「そう。今をときめくご職業ねえ」
婦人はそう言って、吐き出し窓に備えられた濡れ縁に腰を下ろした。
「どうぞ。お掛けになって」
「はい」
婦人、渚、僕という順番で濡縁に腰を下ろした。
「素敵なお庭ですね」
「あら、嬉しいわ。主人は朝からゴルフに出かけちゃってね、手入れは専ら私の仕事なの。だけど歳をとるとこれがまた一苦労なのよねえ」
婦人は静かな笑い声を上げて、ポカリスエットに口をつけた。
「頂きます」
僕はそう言って、午後ティーのキャップを開けた。
「あの、お宅はどちらの会社で建てられたんですか?」
僕は午後ティーを一口飲んでから、婦人に尋ねた。婦人は僕の質問を聞いて、また静かに笑った。
「これ、主人の設計なのよ。そうねえ」
そう言って、婦人は指を折り始めた。
「もう、32年になるわね。大昔の家なのよ」
「そうなんですか」
「もしかして、百合丘材木店さんですか?」
「あらっ、よくご存知ね」
渚の言葉に婦人が少し大きな声を上げた。百合丘材木店の名前には、僕にも聞き覚えがあった。この辺が僕にはない、渚の洞察力の鋭さだった。
「あの表札が目に入ったもので。この辺りでは珍しいお名前ですよね」
「そうよね。百合丘なんて、大層な苗字を頂いちゃったものね」
「あの、ホームページも見させて頂きました。素敵でした」
「それは、主人も喜ぶわ、きっと。そっちの方は息子がやっているみたいですけど。もし、お時間があったら、来週またいらして。主人も来週は在宅していると思うわ」
「そんな。ご迷惑じゃないですかね」
「家を褒められて、迷惑に思うことなんて、ちっともないわ。けど、主人の建築論は少し長くなるかも知れませんけど」
3度目の婦人の笑い声は、少しトーンの高いものだった。僕たちはしばらく、当時の家づくりの苦労話などを聞かせて貰って、百合丘家を後にした。
「素敵なお家と素敵な方だったわね」
カレー鍋をつつきながら、渚が口を開いた。夕食はCMで見かけたレシピをそのまま作ったカレー鍋だった。下ごしらえをするのは渚の担当で、調理は僕の担当だった。
「そうだね。やっぱり昔のデザインをもっと見直さなきゃいけないのかな」
「仕事の話?」
「いや、両方さ」
ソファの上で寝ていた猫が、シンクを踏み台にして冷蔵庫の上によじ登った。どうやら、僕と渚の会話が睡眠の邪魔をしたようだ。
「そうね。なんでもかんでも新しいものだけを追求するっていうのは、違うのかもね」
「でもさ、このアパートで不自由なところってある?」
「そうねえ」
僕は空になった皿に鍋を盛った。体はアルコールを欲していたが、明後日までに片付けなければいけない仕事が残っていた。
「寒いところかな」
「それだけ?」
「うーん、だって機能的には満たされているわけでしょ」
「まあ、僕もそうだけど。そうすると、僕たちには15、6坪しか必要ないってことだよね」
僕たちが暮らすアパートは、10畳、8畳、10畳の合計28畳の14坪だった。そこに、バス、トイレを足しても、せいぜい16坪といったところだろう。
「それに、将来のための子供部屋があればそれでいいわけか・・・」
そう言って、渚がミネラルウォーターに口をつけた。
「空間的にはそうなるよね。広いリビングって言ったって、このくらいで充分だと思うしね」
言いながら、僕はリビングを見回した。
「そうねえ。そっちが言っていた読書スペースは?」
「うん、それは欲しいな。けど、それだって1坪もあれば充分だよ」
「そっか。だとすると何が家づくりの主題になるの?」
「色々考えたんだけどね、いい素材で暮らしたいと思わない?」
「素材?」
「そう、素材。百合丘さんのお宅もそうだったけど、いい素材って古くなっても味が出るじゃない?」
「うんうん」
渚が軽い相槌を返してきた。
「いい素材と一緒に歳を取るってのもいいかなって」
「それは言えるわね」
「最近のCMとか、広告見ていてもそうじゃない?広々リビング!とか、坪単価いくらです!とか、あんまりそういうのには惹かれないっていうかさ」
「きっとそれはマイノリティーな意見だわね」
「そう。確かに、僕たちはマイノリティーだと思うよ。そんなに『人と一緒じゃ嫌だ』なんて思わないんだけど、結果的にそうなるんだよね」
「まあ、それは仕方ないわね。あー、お腹一杯」
渚がお腹の辺りをぽんぽんと叩いて、床の上に寝転んだ。
翌週、僕たちは手土産を持って再び百合丘さんのお宅を訪ねた。庭では年配の男の人がゴルフクラブを振っていた。多分、この人が百合丘材木店の社長さんなのだろう。
「こんにちはぁー」
渚が勝手知ったるといった声音で、間延びした挨拶を口にすると、スイングをしていた男の人が、僕たちの方へ目を向けた。
「やあ、こんにちは。君たちが迷える子羊たちかね?」
そう言って、ゴルフクラブを杖代わりにした年配の男の人が表情を崩した。
「迷える子羊?」
「いやいや、うちのがそう呼んでいてね。家づくりに迷った子羊が迷い込んで来たってね」
「あら、いらっしゃい」
リビングの掃き出し窓から婦人が姿を見せた。
「こんにちは。先日はどうも有難うございました」
僕がそう言うと、渚も習って頭を下げた。
「さあ、上がって頂戴。貴方、この方たちがこの家を褒めて下さったご夫婦よ」
うんうん、と頷いた社長が門扉を開けてくれた。
「あの、お休みのところすみません」
「いやいや、こっちはゴルフくらいしかすることがなくってね。さあ、どうぞ」
僕たちは社長さんに案内されるまま、リビングへと通して貰った。リビングはカーペット敷きになっていて、天井には木がはられていた。腰を下ろしたソファも、僕たちの部屋にある物とは比べ物にならないほど座り心地の良いものだった。
「百合丘です」
正面に座った社長さんが名刺を手渡してくれた。名刺には百合丘材木店会長 百合丘樹与太とあった。社長だと思っていた男性は、会長だった。
「あの、今日は名刺持っていなくて・・・」
「いやいや、構わないよ。それより、家づくりを考えているんだってね」
百合丘会長は穏やかな笑顔を、顔に浮かべていた。
「はい。それで素敵なお宅を見つけたってことになって、先週・・・」
「そうかい。それは嬉しいねぇ」
会長はそう言って、大きな笑い声を上げた。
「だけど、これはもう30年以上経つ家だよ。それを今頃になって褒めて貰えるなんて思ってもいなかった」
「そんな。褒めるなんておこがましいんですが」
僕は自然と後ろ頭を掻いていた。それは、困ったときに出る僕の癖だった。
「デザインの勉強をされていたんですか?」
渚が行き成り切り込んだ。特攻隊長『渚』の登場だった。
「うーん、勉強ねぇ。まあ、かじったという程度かなぁ。私たちの時代には建築を勉強している ― 特に個人住宅なんて言うと馬鹿にされたもんさ」
「それでも、素敵な家を沢山つくられています」
「そっちは倅が頑張り始めてね。私はもっぱらこっち専門だよ」
そう言って、百合丘会長はゴルフのスイングをする素振りを見せた。
「あの・・僕たちはこれから家づくりを考えているんですけど、何から始めたらいいのか分からなくて・・・」
僕の言葉は自然と恐る恐るというような感じになってしまっていた。なんと言っても、相手は百合丘材木店の会長だ。僕には渚のような勝負根性はない。
「それは難しい質問だねー」
「この人の建築論は長くなりますよ」
百合丘会長が口を開こうとすると、夫人が盆に載せた紅茶を運んでくれた。夫人の顔には微笑みが浮かんでいて、カップからは漂う香りは、それが上等な茶葉であることを窺わせてくれた。
「いえ、それが聞きたいんです」
目の前に紅茶を置かれた渚が、軽く頭を下げながら口を開いた。
「いただきます」
僕も夫人に向かって頭を下げた。夫人はそのまま百合丘会長の隣に腰を下ろした。
「それで、どんな家を欲しいと思っているのかな?」
「はい、あの正直なところ、部屋の大きさとかより、何と言うか・・・素材にこだわったような家がいいかなっていうくらいしか思いつかなくって。何となく気持ちいいと思えるような空間が欲しいかなって。すみません、具体的じゃなくって」
僕の右手はまた後ろ頭に回っていた。
「いやいや、最初はそれで十分。君たち夫婦の家をゼロからデザインするためにプロがいるのだからね。ところで、君たちが気持ちいいって感じるのはどんなときかね?」
百合丘会長は世間話でもするような口調だった。
「どうぞ、お飲みになって。お口に合うかしら」
婦人が優しい声で、僕たちに紅茶を勧めてくれた。
「いただきます」
僕はカップに口をつけながら、会長の質問への答えを頭の中で模索した。
「僕は本を読んでいるときです。あの、太陽の光の下で」
僕の答えに頷きながら、会長が渚の方へ視線を向けた。
「そうですねぇ」
渚は顎に手を当てながら、天井を見上げた。会長と夫人がほとんど同じタイミングでカップに手を伸ばした。夫人はソーサーも一緒に持ち上げた。それが、紅茶を飲むときの正式な作法なのかも知れない。僕が頭の中で次の答えを探し始めていると、不意に渚が呟いた。
「私はぼーっとしているとき・・・かな」
吹き出しそうになる僕を、会長の相槌が抑え込んでくれた。
「うんうん」
「あの、私は家で仕事をしていることが多いんです。だから、パソコンから離れて、ぼーっとしている一時が気持ちいい時間です」
「それは大切なことだね。そのときは、何を見ているの?」
「空です。天気のいい日の空が好きです」
「これで、ひとつ君たちの家に対するアプローチが見えてきたよ」
渚は不思議な表情を浮かべながらカップを持ち上げた。
「君たちはお日さまが好きなようだね。これで、君たちの住む家にはお日さまを取り込むことが必要だということになるね。それは、形にすると吹き抜けだったり、中庭だったり、ハイサイドライトだったりするんだがね」
「なるほど」
僕と渚は同時に頷いた。
「そんなに感心しないでおくれ」
そう言って、百合丘会長がまた大きな声を上げながら笑った。
「こんな風にして君たちの頭の中のパーツをひとつひとつ組み上げていくのが、設計士の仕事になるんだよ」
「なるほど」
僕はまた同じ言葉を口にしていた。それは、デザインの仕事に似ている作業と言えなくもないが、対象が家となると僕には全く想像することが出来なかった。
「デザインの仕事をしていると言っていたね?」
「はい」
「今までで感動したデザインは何かね?」
「ダヴィンチの最後の晩餐と、愛車のチンクエチェントかな・・・」
「ほう。イタリアが好きかね?」
「はい。初めてミラノへ行ったときから、もうぞっこんって感じです」
「そうかい。それはいいものを見たね」
そう言って、百合丘会長がカップに口をつけた。
「家の中、見なさる?」
会長に倣って、カップに口をつけていると夫人が口を開いた。
「宜しいんですか?」
「今日のために掃除をしたんですよ。お二人はいい機会を与えてくれたわ」
「すみません」
僕の言葉を合図に、二人でソファから腰を上げた。
夫人の案内でキッチンから、水廻り、書斎、寝室まで見学をさせてもらった。書斎の本棚には、建築家の本がずらっと並んでいた。その中には、建築界の3巨匠の他に、ルイス・カーンの写真集も見つけたることが出来た。百合丘邸は何といっても中庭が素晴らしかった。中庭を中心にして、リビングや水廻り、書斎が配置されている。家のどこにいても、庭に植えられた樹が見えるようになっているのだ。中庭にもハナミズキの花が綺麗に咲いていた。
僕たちは再びリビングに戻って、ソファに腰を下ろした。
「ありがとうございました」
僕はソファに座っていた百合丘会長に頭を下げた。
「いやいや、参考になったかなぁ」
「はい。あのルイス・カーンの写真集がありましたね」
「おっ、いいとこに目をつけるじゃないか」
そう言うと、会長はソファから腰を上げた。しばらくして、戻ってきた会長の腕には、ルイス・カーンの写真集が何冊か抱えられていた。
「カーンが好きなのかね?」
会長はそう言うと、抱えてきた写真集をテーブルの上に置いて、その内の一冊を手にとってパラパラと捲り始めた。
「あの、窓に組み込まれたベンチが素敵だなと思って。そこに座って本を読みたいな、って」
「いいね。私も若いころはカーンの建築に憧れてね。カルフォルニアのソーク研究所やテキサスのキンベル美術館、コネチカット州にあるイエール大学なんか見に行ったもんさ」
「そうなんですか」
「ああ。君もそうだと思うが、最後の晩餐を実際に目にしたのと、写真で見るのとは全く違うことなんじゃないかな。インターネットが普及したと言っても、やっぱり実際に目にしたときの雰囲気までは感じ取ることは不可能だと思うね」
「そうですね。僕はサンタマリア・デッレ・グラッチェ教会で足が震えました」
「そうだろう。実際に目にするということは、そういうことでね。脳とか体の反応こそが実体験と言うものなのさ」
そう言って、会長がまた大きな声で笑った。
「あの、百合丘材木店さんに私たちの家づくりをお願いすることって出来ますか?」
手にしたカップから口を離しながら、渚が言葉を発した。そして、その言葉が僕たちの家づくりを大きく展開させる切欠になった。
第2話へ続く。